「セシルマクビー」で服を買った。高い服ではないし、奇抜なデザインでもない。でも、それなりに感慨があった。
90年代の後半、私が高校生だったころ、セシルマクビーが象徴するようなギャル文化が旺盛を極めていた。教室の片隅でノストラダムスが予言したこの世の終わりを信じていた私とは完全に別世界のところで、イケてる部類に属する女子たちは首都東京から発信されるギャル文化に敏感に反応し、可能な限りファッションに取り入れていたように記憶している。
私はもちろんその時代にセシルマクビーで服など買ったことなどなく、ましてお店に入ったこともなく、正直近づくのも怖かった。私にとってのセシルマクビーは、駅の地下にあるショッピングモールでお店の数十メートル前から大音量のDestiny’s Childの”Survivor”が聞こえてくることや、誰かの机の横にぶら下がった黒光りするショップバッグ(中身はプリントや体操服など)などだった。
あれからもう20年以上が過ぎた。当時ギャル文化を謳歌していたイケてる部類の女子たちは、すでに子供が3人いたり、バツ2だったり、相変わらず世の隅っこで悶々としている私のずいぶん先の人生を生きているらしい。
先日、セシルマクビー全店舗閉鎖のニュースが耳に入ってきた。近頃アパレル系の撤退ニュースは少なくないけれど、そのなかでもこの「セシルマクビーがなくなる」は結構インパクトがあった。
今日、街を歩いている時にふと、「今ならいける」という感触を得て、思い切って最寄りのセシルマクビーに行ってみることにした。昔はお店も黒光りするギラギラした内装だったように記憶しているが、ずいぶんとアクが抜けた白っぽい印象のお店だ。意を決してお店に入ってみると、さすがに販売員のお姉さんはフルメイクばっちりの金髪巻き髪だ。「てめえなんかに売る服は置いてねえ」と入店拒否されることもなく、高校3年間絶対にルーズソックスは履かない主義で通した私にもどんどん商品を薦めてくる。ただの接客なのだが、話しかけてもらったことに気をよくして「ニュースを見たので寂しいなと思って…」と言ってみると、「あーそうなんですか。ありがとうございます~」と返してくれた。噛みつかれるようなことは全然なかった。
お店のラインナップを一巡して見てみると、服もずいぶんと牙が抜けたというか、どういう人が着るのかあえてぼかし、うっすらとだけギャル風味を残したような服ばかりの気がした。正直アラフォーを迎えた私が着られるような服は一着たりとて置いていないのだが、ここはなにかを成仏させるためだと思って無理やりに服を2着選んでみた。トップスとワンピースで7,000円ちょっと。
どれくらいの価格帯なのかも全く知らなかったが、拍子抜けするほどお求めやすい価格だ。販売員のお姉さんに「いつまでかまだわからないんですけど、またよかったら~」と見送られてお店を後にした。私などがセシルマクビーの紙袋を持って歩いているところをクラスメイトに見られたら…と内心ひやひやしながら歩いたが、ここは故郷から遠く離れた東京。誰がどんな格好をしても気にする人などいない大都会なのだ。
帰宅後、試着もせずに買ったワンピースを着てみたが、似合っているかどうかはともかく着られた。あれだけ憎むべき仮想敵のように思えたギャルおよびギャル文化の象徴が、虫の息となって手元にあると無性に愛おしく思えるから不思議だ。このショップバッグは今後も大切に持っておこうと思う。