歯が、痛かった。歯が痛いと、歯が痛いという事実がその他のことをすべて包括するようになり、歯が痛いことしか考えられなくなる。
歯の痛みがクレッシェンドになっていったのは先週末のことで、近隣の歯科医は週明けにしかやっていない。私は痛みのやり場がなく、しきりに夫に口の中を見てもらうという何の解決にもならない迷惑行為を繰り返していた。親知らずのある奥歯の辺りが痛んだので、親知らずのせいで痛んでいるのだろうと思い込んでいた。
週が明け、近場で評判がいいという歯科医へ早速出かけてみた。今回が初診のところだ。事前にその歯科医のホームページを確認すると、新型コロナウイルスについての医院の対策についての注意書きで、わざわざ『武漢ウイルス』という書き方がされている。受付を終えて待合室で新聞や雑誌の棚を見ると産経新聞などが置いてあることから、ライトウイングな思想のところなのかなと思う。しかし歯のレントゲンを撮影するために案内された部屋にはでかでかと忌野清志郎のポスターが貼ってあり、そうでもないのかと混乱をしてしまう。それらすべてを院長がチョイスしたのかはわからないのだが…。
時節柄、検温とアルコール消毒の儀式を経ていよいよ診察へ。医師も衛生士もマスクにフェイスシールド姿だ。かっこいい。家以外でマスクを外すことがとても久しぶりに感じる。「親知らずが痛む」ということを問診票に書いたのだが、医師は首を傾げている。もし奥歯の親知らずがその横にある歯を圧迫することで痛むのであれば、周囲の歯茎が炎症を起こしているはずだが、そうはなっていないというのだ。痛みの根源を突き止めるべく念入りに問診と視診、触診を繰り返す医師…。しばらくして、医師は私が検査台に座ったまま見られるサイドテーブルのような小さなホワイトボードを持って帰ってきた。
ホワイトボードに歯の絵を描きながら、医師は私の痛みには二つの仮説が立てられると講義のように図解を始めた。一つ目は『根尖性歯周炎』による痛みの疑い。奥歯にある親知らずの一つ手前の歯にプラスチックが被せられているが、それが劣化してばい菌が入り込み、歯の神経(歯髄)を破壊し、遂に歯の根元の先端部分にまで至ってそこが炎症しているという説。二つ目は『歯根膜炎』による痛みの疑い。これは歯ぎしりや歯を食いしばったために余計や圧力がかかって歯の根元が炎症しているという説。
二つの仮説のうちどちらかによって、治療のアプローチは全く異なるのだという。一つ目の『根尖性歯周炎』だった場合は歯の神経のばい菌を取り除いてそこに代わりのものを入れたりする治療が必要で、一回では終わらない大変なものらしい。二つの目の『歯根膜炎』だった場合は、とてもシンプルに「圧力を加えないで放置」することだという。どちらかわからないのであればシンプルな方を試して様子を見てみようということで、「歯に被せる帽子」のようなものを装着し、歯がかみ合わないようにして数日置いてみることになった。
痛みのある奥歯ではなく、前の方の歯型をとって歯先にぴったり被せられる「歯の帽子」を作ってもらい、痛み止めをもらって二日後に再び診てもらう予約を入れる。歯の帽子は食事の時以外可能な限り被せておくよう言われる。
帰路に就き、てっきり親知らずを抜くことになると思っていた私は意外な展開に、困惑していた。そして、それぞれの仮説について、原因に考えめぐらせていた。一つ目の『根尖性歯周炎』だった場合、奥歯に被せられたプラスチックが劣化していることが原因だという。そういえば…。
二年ほど前、夏祭りでりんご飴を食べた時、飴に奥歯の詰め物がくっついて取れてしまい、歯医者に行ったことがあった。その時に治療を行った歯医者が銀歯ではなくもっと目立たないものを代わりに被せておいたと言っていた気がする。あの時の処置がよくなかったのではないか…という疑念が湧いてくる。二つ目の『歯根膜炎』だった場合、ここ最近で歯を食いしばることなど思い当たらない。寝ている時に歯ぎしりしていることもないようだし…と一つ目の歯医者のせいにしかかった時、あることに思い当たった。
そういえば先週、イラストをアニメーションのように動かせないかと二日ぐらい悪戦苦闘したことがあった。アニメーションといってもとても単純なもので、こんなものに?というぐらい簡単なGIFを作るのに、ぐったりするほど疲れたものだ。あの時にそんなに歯を食いしばっていたのか?
どちらにせよ、私は健康であるがゆえに病院ごとになるといたく興奮してしまうので、特別なミステリーを与えられたようでうれしくて仕方がなかった。今度は夫に歯の帽子を被せた口の中を見せるという迷惑行為を繰り返し、マスク姿であることをいいことに歯の帽子を被ったまま出勤し、なんとなく滑舌が悪い状態でもごもごと話し、歯の帽子をつけたまま眠った。
そして翌日…。たった一日で痛みはほとんど引いてしまった。あんなに痛くてたまらなかったのに。りんご飴の時の医師のせいにしようと思っていたのに。というわけで、二日後の診察の際はよかったよかったと歯科医も喜んでくれて、歯のクリーニングだけして無事に治療は完了した。
そして改めて、歯の根元が炎症を起こすほど歯を食いしばりながらGIFアニメを作っていた自分よ…となった。次からは歯の帽子を被ってアニメ作りに励もうと思う。