もっと頻繁にブログを書こう!と思っても、去年と同様に年に2回となってしまいました。
2024年も終わりということで何を書こうかなと思っていたところ、そういえば上京してから10年が経過したんだなということを思い出しました。生まれも育ちも大学も就職も京都と滋賀の周辺で完結し、かなり強引に舵を切らなければ上京という選択肢は私の人生にはなかったのですが、あの決断が今の自分を作っていると思うので、今回は上京前後のあれこれなどを書いてみたいと思います。
31歳で上京
私は現在42歳ですが、上京してきたのは32歳になる直前で、かなり遅かったです。上京するまでは京都のレコードショップで働いていて、やりがい搾取的な低賃金長時間労働の仕事に疲弊しきっていて、つらさのあまりどこか遠くの誰もいない山にでも籠って小説を書いたりしたいと思っていました。当時は日記を書くことだけが楽しみだったので、こんなに書くことが救いになるのなら小説家になるしかない、などと当時の自分なりに思い詰めていたのです。でも貯金も全然なくて、どこか遠いところに住まいを確保することなど実現不可能に思えました。
それでも本当にギリギリまで気持ちが追い詰められていたので、現状を打破するためにはここではないところに行くしかないと思い、イギリス留学時代に知り合った東京在住のかなり年上(自分の親世代)の知人女性にオンラインで悩みを打ち明けたところ、「うちに来れば?」とあっさり言ってもらえたのでした。広い一軒家に一人で住んでいるので空いている部屋を使ってくれていいし、家賃はなんと1万円でいいと。
このビッグウェーブに乗るしかないと早速会社を辞めて両親を泣いて説得し、数か月後には上京することになりました。でも、東京といっても23区内ではなく町田市でした。地理的にも歴史的にも神奈川県に近い町田市は、首都圏では「町田は神奈川」とネタにされることも多いですが、地方民にはそんな土地勘は全くなかった。初めて町田駅に降り立った時、駅前には横浜銀行のATMがあり、コンビニには「Yokohama Walker」が置いてあり、バスは神奈中であることに、何となく違和感は感じましたが、住んでみてようやく私の実家(滋賀)の最寄り駅から京都駅に出るのと同じぐらいの所要時間が小田急の町田駅から新宿駅までかかることがわかりました。「上京物語」にしてはちょっと弱い気もしましたが、家賃1万円では文句は言えません。
それで始まった居候生活ですが、やはり現実にはなかなか難しいことが多く、結局半年ぐらいでそこも出なくてはならなくなりました。まだ始まってもいないような上京物語をここで終わらせるわけにはいかないと、町田で部屋を探して居候先からも近く家賃が激安の団地に引っ越して一人暮らしすることに。家賃は3万8千円でしたが、上京前から大した貯金もなかった無職の私に2回も立て続けに引っ越しする資金などあるはずもなく、ついに貯金も底をつき、やむを得ずカードローンに手を出し、そのまま無職というわけにもいかず就職活動をし、団地から自転車で通える企業に派遣として働くことになりました。
そこはいわゆる大企業の一部署で、私がそれまで超小規模の労基的にかなり“黒い”中小企業しか働いたことがなかったため、平日9時5時の事務仕事で残業なしで手取りが20万弱あるというあまりのホワイトさに、東証一部上場企業ってすげ~、東京ってすげ~と感動しました。京都時代は年末年始も土日祝も関係なく働き、死ぬほど残業してもなかなか20万に届かないような生活だったのです。今思うとよく頑張ってたな~と思います。
絵を描くことになる
小説家になるしかない、などと思い詰めて上京したものの、今まで書いていたのは日記のみ。いくつか小説らしきものを書いて文学賞に応募するも全く引っかからず、そのうちまた生活に追われ出したころに、京都時代の元同僚から「知人が英語教室の教材用絵本を書いてくれる人を探している」と話を持ち掛けられました。私はさっそく張り切って簡単な英語で草稿を書き、そこにイメージ用のラフ画も添えて提出したのですが、先方からは「文章ではなくて絵の方をお願いしたい」という思いがけない返答があり、同時にペンタブレットが送られてきました。
確かに10代のころはイラストを描くのが好きでしたが、専門的に学んだことはありません。当時描くのは年に1回年賀状に添えるイラストのみ。しかしその無茶ぶりのおかげで、今に至るまで創作の柱を『絵を描く』ことにする生活が始まったのでした。
もちろんデジタルでイラストなど描いたことなどなかったのですが、人間必要に迫られればなんとかなるもんです。今思えばあの低スペックPCでよく描いてたなと思うほど最低限のノートPCに無料のイラスト描画ソフトを入れて、小さいディスプレイの中でイラストを最大限に拡大し、頻繁にフリーズさせながら毎月1冊14ページの小冊子的な絵本用イラストを描いていました。
当時のイラストは今から見るとド下手なんですが、力が入りすぎているのとPCのスペックが低いことによる相乗効果で線に妙な震えが出ており、今では描こうと思っても描けない味わいがあるなあとも思います。初期衝動ってやつです。あくまで英語教室内の教材で商業出版ではないものの、毎月イラストを納品して対価を得ることができるようになったおかげで、底の底だった私の自尊心は徐々に回復していきました。
それから上京してもう一つの大きなターニングポイントになったのが現在の夫との出会いです。
33歳で不倫の危機
私は町田で派遣として働いていた会社内で既婚男性と性的関係こそないものの仕事以外で2人で会うようなことをしてしまっており、自分でもこれはいかんと思っていつつどうしようもなくその男性に惹かれてずるずると密会を重ねていました。職場でしか男性と接することがないから恋愛レーダーが誤作動してしまうのだと考え、当時もう33歳になっていたのですが、結婚したいなら年齢的にも一刻も早く動いた方がいいだろう、日本で一番人口が多い東京で、狭い職場内で結婚相手を探す必要はない、もっと広く結婚相手を探し求めようと婚活サイト(マッチングアプリ)に登録しました。そこで知り合ったのが現在の夫です。
今でこそ結婚相手をマチアプで探すというのもかなりメジャーになりましたが、当時はまだそこまでではなく、かなりの後ろめたさもありましたし、なんとなくエピソード的にドラマチックさに欠けるなとは思いましたが、33歳で既婚男性とよくない関係に進みつつある私は四の五の言っている場合ではなかった。
夫とは初めからものすごく話が合って、大体ふだんは自分のことを話す時に「こんなことを言ってもわかってもらえないだろう」と引っ込めてしまうことが多いのに、夫にはそこまで親しくなる前からどんどん話すことができました。私はそれを「気が合うからだ」と当時は思っていましたが、もちろんそれもありますが実際は夫の知能が高く、読解力があるために私に話を合わせてくれていたんだと思います。夫と出会ったあとは意図的に夫との約束を既婚者より先に入れることで段々と既婚者との距離を作っていき、大きなトラブルもなくよからぬ関係を終わらせることができました。
しかし夫との関係も一筋縄ではいかず、結婚するほどの信頼関係を築いていくにはかなりの根気と時間を要しました。一度はもう別れるというところまでいったのですが、そこまでいってやっと本当に腹を割って互いの気持ちを確認するに至り、出会って4年後の37歳の時に結婚。そして私が夫の住んでいる23区内に押し掛ける形で引っ越しをしました。東京で3回目の引っ越しです。お恥ずかしい話ですが、会社員である夫との結婚による生活の安定は大変に有難かった。常に給料日前にお金が底をつき、カードローンの支払いに追われる限界貧困生活からようやく抜け出すことができました。
それからも細かいことはいろいろありましたが、働きながらイラストを描いて発表するという基本は変わることなく続いています。ただ単騎で働くよりも負担はかなり軽く、時間的な余裕もあるため、貧困時代の私から比べれば貴族のような生活だと思います。たまにあのまま京都で働いていたらどうなっていたかな…と想像すると、周囲に心配や迷惑はかけましたがやはり勇気を出して行動してよかったと思います。それまでは何となく親や人に言われた通りに流されるままの人生でしたが、あそこまで追い詰められてようやく自分で自分の人生を切り拓くことができたのでした。
東京は10年住んだ今でもまだ“新規参入者”の気持ちが抜けませんが、しばらくはまだお世話にになりそうです。根暗タイプにはありがたい街です。
それではここまで読んでくださった奇特な皆さまもよいお年をお過ごしください。